学問と教育に一生を捧げ、その誠実な人柄から「伊予聖人」と謳われ、郷土の人々に慕われ続ける近藤篤山。その人となりは、いくつもの試練を乗り越え、育まれたものでした。
 しかし、幼い篤山に、幸せは長くは続きませんでした。両親の離婚による母との別 れ、そして村を襲った数年にわたる日照り。作物は育たず、売る物もなくなった父は、借りていたお金だけは返そうと田畑を手放し、別 子銅山へと移り住むのでした。
 年を追うごとに、篤山の勉学への意欲は膨らみ続け、父もまた息子に十分な学問をさせてやりたいと願っていました。
 そして篤山23歳。旅立ちの時がやってきます。
 大阪で塾を開いていた朱子学の大家である尾藤二洲に入門が許されたのです。
 なけなしのお金をはたき、父と後妻に入った母は、篤山を大阪に送り出します。
 
 やがて師、二洲に請われ江戸の「昌平こう」に移った篤山は、その学問の深さと立派な人柄を認められ、二洲もいずれこの学校の先生にと思うようになっていました。
 
 両親の元に戻った篤山は川之江で塾を開きます。
 藩主は、藩の先生として篤山を迎えようとしましたが、篤山はこれを断り続けます。
 そして、川之江の塾が4年目を迎えた頃、篤山はようやく小松藩に仕えることを決心します。
 山役人の仕事を勤め上げ、小松藩の寮内で余生を送っていた父と暮らしたい。
 つきることのない親への思いが篤山を衝き動かしたのでした。
 小松藩に移った篤山は、藩の学校であった「培達校」を「養正館」へと拡充し、学問繁栄の基礎を築きます。
 篤山はまた、武士だけでなく村役人や庄屋・僧侶・神主などへ、その教えを広めていきます。
 こうして、篤山の清らかな心が領内の隅々にまで行き渡って行ったのでした。
 篤山が静かに眠るこの小高い丘は「養正が丘」呼ばれ、今も小松の町を静かに見下ろしています。



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